花ど真ん中の里便り

栃木県は日本の花ど真ん中です。
 
2021/05/04 10:38:02|その他
正造翁の自己評価
 「幼年の時き謹慎、青年にして
放蕩、年三十一漸自然を重んじ、
 
 四十にして天真爛漫、四十四五より
五十にして金銭上の無欲となり、
 
 五十一にして名誉の欲を生ず。今又
名誉上も無欲とならんとす」
 ( 明治26年・4・27書簡)

 田中正造全集M所収月報7
「正造馬鹿」安丸良夫氏が紹介、
引用させて頂きました。
 







2021/05/03 11:08:29|その他
谷中村事件
 田中正造伝の著者の一人、
大鹿卓さんは「渡良瀬川」(1941年)
「谷中村事件」(57年)を刊行して
います。
 
 なぜ、谷中村、事件なのか。
洪水から村を守る堤防(蕃山堤)が
故意に破壊され〜一村の滅亡もここに
端を発したと言っていい。本書p21。
 
 一方、大鹿さんは、本書あとがきで、
木下尚江の言葉、翁は「谷中村強制破壊」
という洗礼を受け「天空海濶自由の世界に」
入った。を引用し共感。
 
 私も(大鹿卓氏)この見方に同感を
惜しまぬものである。(本書の文章は
前後しますが)義人(直訴通説見方)と
いう認識からその後の翁、谷中村暮らしに
大鹿さんは翁の真価を認め、光を
アテテイマス。喝
 
 
 
 
 







2021/05/02 9:31:14|その他
洛陽の紙価を高める
 田中正造が、谷中村に身を投じた
のは、明治三十七年七月三十日のことで、
老齢六十四歳であった。
 
 図書館からお借りした田中正造伝、
大鹿卓著二作目の「谷中村事件」の
書き出しです。
 
 一作目の「渡良瀬川」は田中正造の
直訴をもって筆を擱いた。大鹿卓さんが
二作目「谷中村事件」をなぜ書いたのか。
 
 田中正造谷中村入村、正造翁の真価を
問う思いが、書き出しの一節に込められて
います。喝
 

 







2021/05/01 10:17:22|その他
 俥、人の車、人偏に車、合わせて?
人力車と読ませます。
 
 蔵の街図書館からお借りした
大鹿卓著「渡良瀬川」「谷中村事件」
作中のこの一字に感動しました。
 
 (正造は)黒の高帽子をかぶって、
すぐに用意の俥に乗り込んだ。俥夫
弥三吉はなじみの客が今日はいかなる
大事に赴くか知るよしもなく、無造作に
梶棒をあげた。(「渡良瀬川」p320)
 
 正造は警官にひかれて(略)派出所へ
伴われた。(略)落ち着いた態度で住所氏名の
尋問に答えた。ついで俥で麹町署へと護送
された。(同書、p323〜324)
 
 
 







2021/04/30 9:56:39|その他
正造翁の俥
 蔵の街図書館からお借りした
大鹿卓著「渡良瀬川」「谷中村事件」
読んでいます。(引用、正造翁の俥)
 
 正造の嚢中は乏しかった。被害地の
誰彼へ送る書状の切手代もなく女中から
一円借りて(略)外出の途中で昼飯を(略)
俥夫に立てかえて〜「渡良瀬川」p198
 
 正造は俥を停めて(略)「田中正造です。
昨夜の電報を見て、驚いて夜通しで駆けつけた
ところです。同書p208、川俣事件)
 
 正造は(略)瞑目した。それも一刻で
目を開くとその挙止は急に静から動へ
移った。女中を呼び、俥を命じた。
(同書p317、俥を走らせた先は
万朝報記者幸徳伝次郎の寓居)