先日、祖父の一周忌で、私より3つ下の若いご住職と長話をしました。
いつお会いしても礼儀正しく、シャキッとしていて
気さくにいろんな世間話や仏教の話などをしてくれる方で、
今回も、「お久しぶりです。お世話になります。」
と挨拶をすると、笑顔で「こんにちは。お世話になります。」と返してくれました。
でも、その声はかすれていて、
お経を読んでいる時は気づかなかったけど、
市場のおっちゃんのような声で、やっと絞り出している。。というような印象。
「お忙しそうですね。」と言うと。
「えぇ。もう仕事と生活が一緒になってしまって、息抜きをしないといけないと思いつつも、なにで息を抜いていいのかわからなくて。携帯も何もかも家において、身ひとつで出かけて全ての連絡手段を絶ってみたんですけど、やっぱりお寺が気になってしまって逆に気が休まらないんです。。」
と。
「責任の重さは違うと思いますけど、気持ちはわかります。
私も仕事がどうにも忙しくてムリを続けていたら、病気になってしまいまして。。。
大分良くなりましたが、まだ通院は欠かせなくて。。。」
と、自分の以前の出来事を話すと副住職は、
「で、今はそのストレスをどうやって解消してるのですか?」
と聞いてきました。
どうやって? 解消???
「。。。どうしたものでしょうか。まだ見つかっていませんが、過度なムリを避けるようにはしています。」
と応えました。
体調はわりといいけど、相変わらずな生活をしていることを改めて考えさせられました。
すると副住職は、
「昔の人は、“健全な肉体に健全な魂が宿る”といいましたけど、本当にその通りだと思います。身体が健全な時は、他人の心配までしてあげられる余裕がありますけど、体調が悪い時は、自分のことで精一杯だし、人の言った言葉や行動を全てマイナスに捉えてしまうんですよね。誰も気にしちゃいないことを、きっとこんな風に言われてるに違いない、とか、心配して“大丈夫?”と言ってくれた言葉さえ、裏があるように思ってしまう。。最終的には、全部が病気のせいになって、“病気の自分”という逃げ場に逃げ込んでしまう。“病気だからできない” “病気だからやらなくてもいい” そして、病気の自分はなんでも許される。。と自分に甘える。他人に甘える。「がんばれない自分。でも病気だから許される。」という考えに逃げてしまうのが、実は一番いけないことなんです。親に心配かけちゃ絶対ダメですよ。だって、今までどんなことがあっても、親は絶対に自分を見捨てずにがんばってきてくれてるんですからね。何もしてあげられなくても、子供が元気でがんばる姿が、親にとっては一番の幸せです。自分も子供が生まれて親になってそう思えるようになりましたね。」
と言いました。
確かに、私自身思い当たります。。。
「だって病気だからしょうがないじゃん。」
って思ってます。
もう少しがんばればできることを、
病気のせいにしてやらないこともあります。
自分にあまいのか。。。
心の中ではとっくに気づいていたけど、
人に言われると響きますねぇ。。。
でも、私はこう思うんです。
走り続けなくたっていいぢゃない。
休憩したらまた走るからさ。
ゆっくり歩いたり、早歩きしたり、スキップしたり、トイレ行ったりしながら
前には進むよ。
これが『自分に甘い』ってことなんでしょうね。。。
でも、ほぼ健全な肉体の私には、
ほぼ健全な魂が宿ってるはずです。