いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2010/02/13 14:49:22|その他
意思がイエスを捕らえに来た?
ペテロは、自分たちの前に祭司達の一団が来たのを知って、すぐに戦闘態勢に入ったであろう。
「剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。」 とマルコは伝えている。
ルカは、イエスが 「やめなさい。それまで。」 と言って制止したと伝えた。
弟子達には、イエスと祭司長達の一団を交互に見つめる以外に、何もなすすべがなく、少しずつ一団から離れたであろう。
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で確認しながらお読み下さい。


そして押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たちに言われた。 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。(52節)
あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」 (53節)
彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。(54節)


(私の思索)
ルカは、ユダ以外の押しかけてきた人達を、“祭司長、宮の守衛長、長老たち”と記録した。他の福音書も確認しておこう。

マタイ:26:47  イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。

マルコ:14:43  そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。

ヨハネ:18:3  そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。

以上の記録から、次のような人達が押しかけてきた、というのが実態ではなかったか。これは、私の推論に過ぎないので、別の考え方があると思います。
@ 祭司長から差し向けられた“役人たち”、祭司たちかもしれない。
A 宮の守衛長から差し向けられた“一隊の兵士達”
B 長老たち、律法学者たち、パリサイ人たち、から差し向けられた“群衆”

このように整理してみると、ルカは実態を把握出来なかったのかという疑問が残る。しかし、私は、意思の発動者を記録したと考えられるので、問題にならない。即ち“祭司長、宮の守衛長、長老たち”の意思がイエスを捕らえに来たと言いたいのである。

少しばかり脱線するが、ルカがマルコの福音書などを既に読んでいたと考えると、ルカの皮肉とも受け取れる。
この福音書は、ルカがパウロと共に、伝道旅行をしている過程で記述したと考えられているので、1つ1つの出来事を、彼の経験と信仰によって自分のものに消化いたでしょう。

例えば次の通りである。
祭司長たちはイエスを捕らえる確かな理由がないばかりか、多くの人々がイエスの不思議な力や言葉の威厳に驚いて、イエスについていってしまうので、自分たちのイエスに対する嫉妬が抑えきれなかったし、今後、自分たちのところに集まる民衆がいなくなることを考えると、社会的立場が危うくなってくる.
これを感じていたので、イエス抹殺を推進したかったのだ。
こうした自分たちの心と意思は、彼ら自身が最も良く知っていて、イエスの噂を聞き、イエスの話を間接的にでも聞いてみると、自分たちは神の律法の本質からみると間違っていると彼らも感じ始めていた。
にもかかわらず、彼らは自分たちの計画を変えようとしなかった。
自分たちの計画は、神の目からみると罪かもしれない。
自分は罪の行動に参加したくないけれども、イエス抹殺を推進したい。
後になって後ろ指を差されたくないから、イエス捕縛の現場には行きたくない。
だからルカは、“祭司長、宮の守衛長、長老たち”の――意思がイエス捕縛に向かったと記述した――という皮肉である。

私の考え過ぎかもしれないが、Tコリント12章8節 「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、」 とパウロが言っているように、表現が異なるといって、ことさらに騒ぎ立てることではないのでしょう。

(私の脳裏をかすめる言葉)
イエスは答えて言われた。 「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」  ヨハネ6章29節
ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、・・・・Tコリント12章8節

(私の感想)
ユダヤの宗教指導者の立場にいる人達の思いは、複雑だったのでしょう。イエスという新興宗教指導者が現れ、人々の思いを従来と異なる(と感じる)方向へ導き始めたのを見ていて、自分たちの指導力の弱さを感じながら、自分たちの存在意義を確認したかったでしょう。
こうしたジレンマは、個人であれ、1つの団体であれ、国家であれ、歴史の波という形で受ける時がある。その時に、何を基準にして、新しい時代を迎えるのか、新しい準備をするのか、あるいは、一過性の現象に過ぎないとして見守る程度にすべきなのか、大変難しい。
この日は、キリスト教界で言い古された言葉を使うなら、律法の時代から福音の時代に移ろうとする起爆装置のスイッチが、祭司長に代表されるユダヤの宗教指導者によって押された瞬間である。
このスイッチについて神の立場から見れば、イエス降誕の予告であり、イエス降誕であろう。人によってはイエスの復活にあるという方もおられよう。又、イエスの立場から表面的に考察すれば、以前述べたゲッセマネの園における苦闘の祈りであろうか。

少しくどくなるが、ついでにお付合い願おう。弟子達にとってはどうか。
イエスによって初めて声をかけられた時か、使徒の働きの聖霊降臨の時と言うべきか。更に現代の私にとって、私達にとって、律法によって生きる日々から、福音によって生きる日々への転換スイッチは、いつ押されるだろう。個人の内的経験の問題であるが、私の場合は福音を受け入れる側のスイッチが既に押されている。







2009/12/28 22:16:17|聖書
やめなさい。それまで。
祭司長たちの一団を見て、イエスの口から出た“裏切り”ということばを聞いた弟子達には、一瞬の緊張に包まれたであろう。
しかしイエスは、この時が、このような形で起きるのを既に知っておられた。
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で確認しながらお読み下さい。


イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、 「主よ。剣で打ちましょうか。」 と言った。(49節)
そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。(50節)
するとイエスは、「やめなさい。それまで。」 と言われた。そして、耳にさわって 彼を直してやられた。(51節)


(私の思索)
49節の提案を誰が言ったのか不明である。しかし、50節の行動を起したのが、ペテロである(ヨハネ18章10節参照)ことを考慮すると、提案者もペテロである可能性は高い。しかし、“回りにいた者たち”と書かれていることを考慮すると、ルカは複数の弟子達だったと考えているのでしょう。
ルカは、マタイやマルコと同じように、誰であったかを記述しない。

ただしルカは、51節で、イエスによる 「やめなさい。それまで。」という制止のことばと“耳にさわって彼を直してやられた。” という癒しの行動だけを記述している。
この記述は、他の三福音書にはない。
ルカは、1章3節で 「初めから綿密に調べておりますから」 と書いているように、独自の取材活動の結果をまとめたのだ。
おそらく、人間に対するイエスの優しさと、医者としての知識を遥かに超えた出来事とを、強調したかったのだろう。
現代の医療関係キリスト者なら、どう読むのだろうか。

先程まで、イエスが苦しみながら繰り返し祈っていたのは、予定していたこの時の行動を揺るがないものにするためであったように感じてしまう。
イエスの心中は、過越しの祭りが目の前にきている今、真の過越し、真の贖いを実現するための分岐点であることを、強く意識されておられたに違いない。
父である神との合意内容だ。
自己保存のための戦闘や逃避は、全く読み取れない。
この事を理解できない弟子たちの(ペテロの)行動に対して 「やめなさい。それまで。」 と言って制止したのだ。

これで戻る道が半分以上閉ざされ、弟子達には、もう何もなすすべがない。


参考のために比較記事を
マタイ26章
イエスは彼に、 「友よ。何のために来たのですか。」 と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。
すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。そのとき、イエスは彼に言われた。 「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
マルコ14章
そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。
イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。
ヨハネ18章
シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。そこで、イエスはペテロに言われた。 「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」


(私の脳裏をかすめる言葉)
ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。・・・・・・・・・途中省略・・・・・・・・・・ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。  ルカ10章30〜34節


(私の感想)
置かれた状況を考えると、想像を遥かに超える緊迫感があるのに、描写されたイエスは、冷静で堂々としたものだ。







2009/12/07 12:53:46|聖書
ユダの口づけ
イエスの苦闘の祈りが終わり、初めから計画されており、旧約聖書の中に預言されていた人類救済の具体的な苦闘が始まろうとしている。
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で確認しながらお読み下さい。


それで、彼らに言われた。 「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」 (46節)
イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。(47節)
だが、イエスは彼に、 「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」 と言われた。(48節)


(私の思索)
47節の初めに、ルカは 「イエスがまだ話をしておられるとき」 と書いている。
イエスは、群衆が近づいて来るのがわかっていて、祈りを終了されたと言わんばかりであるが、イエスは十分に祈ったのだ。
だからルカは、イエスが動揺しているような表現を少しも書いていない。

47節の後半部分で、ユダをクローズアップしている。
そのユダは、信頼と親しみを表現する口づけを、イエスを中間達に教える手段に選んだ。
イエスは、その事を知っていたか、ユダが近づいてきた時に察知したのか。
今の私は、前者であろうと思っている。

なぜなら、22章10節を思い出して欲しい。
「イエスは言われた。 「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。」 と弟子に言われて、そのとおりになっている。
また、同様な見方をして、イエスの旅行を見ていくと、行き先で何が起きているか御存知であったと思われる事が多い。
だから、イエスはこれから起る事を御存知であったと思うのである。
口づけを合図にした事を、御存知だったのである。

人間は、この世で生きるために自分が考え計画した事を実現しようと、どんな手段でも、自分の都合だけで、よく吟味せずに実行してしまう弱さを持っている。
イエスは、そのような人間の弱さをよく御存知であったから、ユダを初め、一人ひとりの人間を、そして私を赦そうと、計画されておられた。
そのために、18章33節 「彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 という言葉で、十字架を予告し、“過越しの贖い”を完成しようとされていた。

参考のために、マタイとマルコの記述を読んでみて下さい。なお、ヨハネ18章2〜11節には、口づけの記述がありません。参考:マタイ26章45〜56節。マルコ14章41〜49節。

マタイやマルコを読まれた方は、既にお気づきと思うが、比較的細かく記述している。
ルカは何故、“ユダの行動だけに焦点を合わせたのであろうか”と考えると、ルカは、人間の持つ本質的問題(人の弱さ)を意識させるために、細かい事を省略しようとしていたと思えてくる。


ここで、“口づけ”と翻訳された言葉が気になったので、少し脱線する。
最近テレビでよく観るのだが、親しみを現わす行為として“胸を合わせながら頬を接触させ合う”映像に出会う。
私は、あの映像のような行為でなはなかったかと考えるのが自然だと思うのだが、皆さんはいかがでしょうか。


(私の脳裏をかすめる言葉)
イエスは答えられた。 「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」 (ヨハネ18章8節)


(私の感想)
先頭に立って近づいてくるユダに対するイエスの言葉は、今の私に悲しみに満ちたものとして聞こえる。








2009/08/10 11:04:16|その他
信仰の領域へ
横道に入った事で、ルカがマタイやマルコと異なる表現をしている事がはっきりした。
ルカの意図は、何だろうか。
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で確認しながらお読み下さい。

 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。(45節)
 それで、彼らに言われた。 「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」 (46節)
 イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。(47節)
だが、イエスは彼に、 「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」 と言われた。(48節)

(私の思索)
マタイは 「見なさい。時が来ました。・・・・」 と書き、マルコは 「時が来ました。見なさい。・・・・」 と書いている。
ルカは 「時」 や「 肉体は弱い」 に言及せず、45節で祈りは終わったと書き、46節で 「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように・・・・」 と書いている。

イエス先生の祈りは終わったのだから、目を覚まして次のステップに備えなさいという事にするのが自然の流れだと感じるのだが、ルカの記事を読み直してみると、イエスの祈りが始まる前の40節に同じ言葉があって、46節までの間にイエスの祈りがある。
ルカの意図はどこにあるだろうか。

正解は、別のところにあるかもしれないが、二つの意図を感じた。
先ず、先に述べたように、40節と46節に同じ言葉を用いて、イエスご自身の目前の格闘課題という祈りを挟み、イエスが過去三年間、絶えず祈っていた 「弟子達が誘惑から守られる様に」 という課題を、浮き上がらせようとした。
――これは、その時、身近にいた直接の弟子達に対するイエスの心――
二つめは、40節の言葉が45節までの注意であったのに対し、46節の言葉は今後の生涯に対して、誘惑に陥らないで与えられる信仰を働かせるために、祈り続けなさいという注意を表現しようとした。――これは直接の弟子達を含め、現代の弟子達に対するイエスの心――
少なくとも、ルカ自身が経験して、大切に感じていることを表現しようとしたに違いない。

 「肉体は弱い」 に対して 「霊は強い」 と仮定した前回の思考と合わせ、ルカがマタイやマルコの福音書を既に読んでいる可能性があることも含めて考えると、ルカは祈りを通して人が強くされていく事を経験し、それを示唆している可能性がある。
ルカが2回繰り返して書いている祈りというテーマは、想像以上に大きな信仰の課題なのであろう。


(私の脳裏をかすめる言葉)
絶えず祈りなさい。(Tテサロニケ5章17節)

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12章2節)

(私の感想)
 「誘惑に陥らないように祈っていなさい」 という課題が、私に近づいてきている。
祈りは思考ではなく 「信仰」 の領域であり 「生活」 の領域である。
イエスが弟子達を大切に・大切に思いやっている様子を読んできたが、これは知識としてではなく、イエスを仰ぐ 「信仰・生活」 に生かす価値がありそうである。
祈りを学ばなければ、信仰の継続・成長がないのであろう。







2009/07/11 9:57:28|聖書
横道に
イエスが祈りの途中で、弟子達の所に来て眠りを覚まし、再び祈りに向かう記事があるはずなのに、ルカは記録を残していない。その辺りを確認しておきたい。
ルカによる福音書22章から横道に入ります。細かく比較するつもりはないが、マタイによる福音書26章およびマルコによる福音書14章です。ヨハネによる福音書には苦闘の祈りの記述がない。


(聖書の確認)
マタイ26章36〜45節です。
39節で祈られ、40節で弟子達の所に戻り、42節で祈られ、43節で戻り、44節で三度目の祈りをされて、45節で戻っている。

戻って来られた時に語られたことは何か。
40〜41節
「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。
心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
43節 ・・・・・・・
45〜46節
「まだ眠って休んでいるのですか。
見なさい。
時が来ました。
人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
立ちなさい。
さあ、行くのです。
見なさい。
わたしを裏切る者が近づきました。」

マルコ14章32〜41節です。
35節で祈られ、37節でペテロの所に戻り、39節で祈られ、40節で戻り、41節で三度目に来て(戻って来て)と記述している。戻って来られた時に語られたことは何か。
37〜38節
「シモン。眠っているのか。
一時間でも目をさましていることができなかったのか。
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。
心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
41〜42節
「まだ眠って休んでいるのですか。
もう十分です。
時が来ました。
見なさい。
人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。
さあ、行くのです。
見なさい。
わたしを裏切る者が近づきました。」


(私の思索)
マタイとマルコが伝えている事を要約すると、「肉体は弱い」事と「時が来た」の二つである。
この二つの事は、非常に重要な事であるが、ルカによる福音書に戻りたいので、掘り下げて考える事はしない。

1.肉体は弱い
肉体の基本的欲求に、食欲&排泄欲、性欲、睡眠欲などが挙げられるだろう。
そして傷をつければ出血するから、傷を受けたくないという危険回避欲求もある。

危機的緊急時に、性欲はどこかに姿を隠し、食欲はある程度の我慢ができる。
排泄はかなり我慢しにくいが、食べらなければ欲求も起らない。

睡眠欲は、どうだろう。
テレビ映画の主人公に危機が迫るシーンが続く時など居眠りは起きにくいが、やがて頭が疲れてきて睡魔に負ける。

私の義父が重篤となった折に見舞いに行き、声をかけても反応が無くなった義父と周囲の医療機器を眺めていた。
また、夜間で人気のない病院の廊下をうろうろ歩き、ペットボトルのお茶を飲んだりしながら、容態の変化が気にしていた。
しかし、次第に私の思考力も観察力も衰えて、少し離れた待合室のベンチで数十分の仮眠をとっていたのを記憶している。

弟子達は、過越しの食事ののち、ゲッセマネの園というところに来たとき、 「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。」 とイエス先生に指導された。
その時の弟子達はどうであっただろうか。

@弟子達はイエス先生が非常事態にあると感じ取っていたと思われるが、先生が罪人らの手に引き渡され、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺されることを聞いていたのに信じていなかった。

Aイエス先生が、全人類の救済という極めて大切で重大な目的を実現するために、苦しみに満ちた時を迎えている事など、弟子達にはわからなかった。

B申命記21章に 「木にかけられた者は神にのろわれた者だ・・・・」 と啓示されているが、十字架は木であって、イエスが神にのろわれるべき私たちに代わって、木に架けられることなど、弟子達は微塵もわからないままであった。(私も観念的に考えるだけであって、わからない事である。)

このように、事態の深刻さを知らずにいた事を加味すると、弟子達が 「睡魔に勝てなかった」 事は十分に理解できる。

しかし、イエスが 「肉体は弱い」 とあえて言われた真意を知ることが出来ない。
言葉だけから考えるなら、 「心は燃えていても」 という対比を提示しているので、 「霊の強さに比べると」 という事なのか。
理解困難であり、先輩のご指導を仰ぐほかに手立てはない。

2.時が来ました。
イエスが、十字架に架けられる時が来たという事である。

私の聖書欄外の、時に関する解説は次の通り。
聖書では、神が救いの計画の上で特に定められた時点を示す言葉(カイロス)と、一定の時間的範囲を示す言葉(クロノス)が用いられる。神が定められた時間(クロノス)が満了した時、私の言葉を使うなら、・・・・イエスによる宣教の終わり・・・・を指しているのであろう。これに対応する(カイロス)はイエスが宣教を開始した時という事になる。(参考:マタイ4章17節に「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という使われ方があり、ヨハネの福音書2章4節に「わたしの時はまだ来ていません。」という使われ方がある。)


(私の脳裏をかすめる言葉)
何の言葉もなかったが、数日してからようやくパウロの言葉を思い出した。

私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。     Uコリント5章8節


(私の感想)
イエスご自身が非常事態なのに、弟子達の事を気遣う先生の優しさは、想像を絶する御方だ。

肉体は弱い。
この弱い自分の肉体と分離して地上生活は出来ないし、自分で分離することも赦されていない。
常識的に、人々から許される事柄でもないようだ。
肉体は大切にしなければならないが、肉体に囚われ過ぎると、悩み、迷い、苦しみ等に囚われる。

だからこそ、愛され赦される事と、周りの人を愛する事を通して、霊の言葉を学び、蓄えて行くことが不可欠になってくるのかもしれない。







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